最近の生活は寝てるかキーボードを叩いてるかの 2 択で、取り立てて書けるようなことがないので、大学生の時のことについて書きます。


大学では僕は文学部の言語学専修というところにいました。文字とか言語が漠然と好きで、NHK の語学講座をぼーっと見ているのが好きだからという理由だったのですが、結局ぼーっと見ている以上のことはなく、大学生活ではほとんど勉強せずに終わりました。

京大の中でも文学部のカリキュラムは取り立てて自由で、必修と呼べる授業が週に 2 コマ程度しかなく、残りの時間はすべて自分で選んだものを取ることができました。ただ、言語学の場合は追加の制約が 1 つだけあり、それは「4 年間で(第二外国語とかじゃない)語学の講義を 8 コマ取らなければいけない」というものでした。

幸いなことに、選択肢は有り余るほど用意されていました。ギリシャ語やらサンスクリット語やらの重要な史料言語から、タイ語やらベトナム語といった現代でも使える言語まで。ただ、惜しむらくは自分のモチベーションが本当に低かったということで、いつもテキストを買う瞬間は最高に楽しかったし、初回の授業に出て発音を習うくらいまではやる気に満ちていたのですが、1 ヶ月くらい過ぎて人称代名詞やら動詞の格活用やらの暗記が出てくると気合が低迷、ほぼ何の予習もせずに講義に臨むという体たらくでした。

ヘブライ語の授業もそんな講義の 1 つでした。ヘブライ文字の見た目に興味を持って受講したのですが、すぐに 2,3 回目の授業でやる気を失いました。ただ、この授業で違ったのは、僕だけでなく教授のほうまで(語学の授業という前提でみると)やる気がなかったということです。

ヘブライ語の授業は始まりから既に異質でした。まず、授業は語学でよくある講義室ではなく、教授の研究室で行われました。次に、教科書は指定されていたのですが、ほとんど授業中に使われることはありませんでした。さらに事前に告知のない休講が多く、部屋の前まで言って鍵が開かないことに気づき、5 分くらい待って諦めて帰るというケースが全体の 3 ~ 4 割を占めていました。今思うとこれらの特徴は演習形式の授業に多く、つまり学年が進んだらある種のこういうカジュアルさは日常になるんですが、このヘブライ語の授業を受けている最中はそんなこと思いもしていませんでした。

授業の内容も普通の語学とは違うものでした。普通なら発音があり文法があり、単語を覚えて活用を覚えて、という順番で知識を積み上げていく流れが多かったんですが、ヘブライ語では体系だった学習がほとんどありませんでした。最初の 2 ~ 3 回、文字と発音の体系を学んでいるときだけは脱線も少なかったのですが、その後はほぼ全てが脱線でした。文字だけを覚えた段階でヘブライ語のテキストを渡され、「君たちは勘が鋭いだろうから」と旧約聖書の解釈を無茶振りされました。指名された人が恐る恐る答えると、惜しいねといってホワイトボードに筆記体のヘブライ文字が書かれ(習ってない)、未修の文法事項とこのテキストの神学的解釈がいかに関連しているかについての授業が始まりました。

薄々感づいていたのですが、この授業はいわゆる語学がメインではなかったのです。ヘブライ語は現代でもイスラエルを中心に話されていますが、学術的には史料言語としての価値がはるかに高く、それを前提に授業が組まれていたのだと思います。その史料とは旧約聖書を始めとするユダヤ教関連の文書で、当然、受けている人たちは神学に興味を持つ人が多く(追記:旧約聖書の時代以降もヘブライ語やその子孫は各地に離散したユダヤ人たちによって文書言語として使われ続けたため、中世哲学の文脈でもヘブライ語の理解が必要になるケースは数多くあるようです)、聖書のせの字も分からない自分が受けていること自体がイレギュラーでした。事実、前期の授業には 10 人くらいが出ていましたが、ほとんどが神学や哲学を専攻している人たちで、言語学から来ている人は自分 1 人だけでした。

ところで、文学部で一般的な現象として、「勉強している人ほど授業に来なくなる」というものがありました。これは文学部の卒業基準が異様に甘いことから来るもので(進級基準はありません)、普通に勉強していれば学年の途中で単位数が揃ってしまい、授業を毎週受けに来る必要がなくなってしまうのです。逆に勉強していない人はいつまでも単位が揃わず、内容が分からなかろうが毎週出席して単位を掴み取る必要があります。

結果的に自分たちより神学や哲学に詳しかったはずの学生たちは次々といなくなってしまい、後期にはそもそも受講者は 4 人で、しかも他の人は十分単位が揃っているためか欠席が多く、なかには出席者が自分 1 人だけという週もありました。そうなると僕は「神学と分野間交流をする言語学代表」のような感じになって、教授からは「これは言語学的に説明できたりする?」と聞かれ、僕はたじたじしながらどうにか何か答え、それに対して教授が納得したようにうなずいたり次の質問をしたり、というパネルディスカッションが始まりました。僕は言語学もヘブライ語も真剣にやっていなかったので、的はずれな回答を繰り返していたはずなのですが、それでも教授は何かが深まったかのように笑いながら頷いてくれました。ヘブライ語は結局最後まで 1 つも分かりませんでしたが、今思うと貴重な時間だったと思います。


2 月、いよいよ春休みも近づくという頃になり、履修者は 3 人だけになっていました。やっとこの恥多き時間も終わるかと思っていたのですが、教授が最後の授業で衝撃の発言をしました。1 年間授業についてきてくれたみんなは私の弟子だから、家に招待してあげるというのです。教授はこの催しにスプリングフェストという名前までつけ、メールで集合日時を送ってくれました。

尻込みする気持ちもあったのですが、これまでの 1 年間で培われた図太さもあって、結局この誘いに乗ることにしました。京都から奈良へ、慣れない電車で大きな駅前に辿り着くと、そこにはほとんど言葉を交わしたことのない同じ講義の受講者が 1 人だけ立っていました。銀色のバンが目の前に止まり、そこには見慣れた教授の顔があって、教授と受講者 2 人(もう 1 人は連絡がつかなくなったそうです)は彼の家へと向かいました。

車の中で教授ともう 1 人の学生が雑談をしていました。それで知ったのですが、もう 1 人は京都のあるキリスト教会の手伝いをしているらしく、2 人でその話に花を咲かせていました。

家は広い住宅街の一角にあり、恐縮しながら僕たちは中に入りました。教授の家、というとステレオタイプで広い書斎が思い浮かびますが、実態はそんなものに留まりませんでした。どういう構造で支えられているのか分かりませんが、廊下やら階段に至るまでの全ての壁から棚板が突き出ていて、その全てが神学関連の本で埋まっています。書斎に至っては頭上はるか上の壁までが本棚になっていて、目に見える純粋な物量に僕はただただ圧倒されていました(今思うとどうやってその位置から本を取り出すのか、地震が起きたら終わるのではないかという心配事が思い浮かぶのですが)。

見学を終えて居間に座っていると(恐縮しながら奥様にお茶とお菓子をいただいた記憶があります。本当にありがとう)教授が大量の本が入った紙袋を抱えて僕たちの前へと現れました。再び圧倒される僕を前に、教授は話し始めました。

数年前、自分が指導した学生で非常に意欲が高く、研究者を志して大量の本を買い揃えた人がいた。しかし事情で泣く泣くその道を断念して就職することになり、意欲のある学生に渡してほしいと全ての本を教授に預けた。教授はその本を一旦持ち帰ったが、なかなか渡すタイミングがなく、この歳まで自分の手元で腐らせてしまっていた。ついては意欲のある君たちにこの本を託し、長年の重荷から解放されたい、と。

最初は尻込みしていましたが、結局は頼みに応えるような形になって、僕たちは本を 2 等分して持ち帰ることにしました。一応もう 1 人は神学関連を学んでいて、僕も一応は言語学の学生ということになっていたので、神学っぽい本はもう 1 人に持ち帰ってもらい、僕は余った語学や文献学に近いような本をもらった気がします。その分類をしている間にも、教授は階段の上から大量の本を持って現れ、最後には僕たちの興味に応じてその辺に出ていた本や論文まで次々と渡してくれました。

30 冊以上の分厚い本を両手とリュックに抱え、僕たちがいよいよ帰ろうとすると、教授は僕たちを引き止め、1 冊の本を渡してきました。それは教授が研究者として最初に出した本らしく、どこか照れながら言いました。「今見ると未熟だけど、僕にとっては思い出なんだ」

帰り道、両手に二重の紙袋と、四角くパンパンに入ったリュックを電車のロングシートに置きながら、僕は好奇心に負けてさっきもらった本を開きました。「ユダヤ人から見たキリスト教」という本で、数十年前の活字はかすれがかって読みづらく、中身も中世の文献を丹念になぞる学術的な内容で、正直僕には 1 ミリも分かりません。

諦めて本を閉じようとすると、本のそでに何かが書かれているのが目に入りました。そこには僕の名前を宛名として、短い文章が書かれていました。そういえばさっき本を渡す前、教授が何かをこの本に書き込んでいるのを見ていました。そこには次のように書かれていました。

「京大ヘブライ語よ偉大なれ」


この数カ月後、全く別の出会いにより僕はソロモン諸島という国のピジン語を学ぶことになり、卒論もそれで書きました。ヘブライ語はその後何回か勉強しようとしましたが、結局僕の怠惰が強すぎて挨拶すら学べることなく、あのとき頂いた本もほとんど読めていません。本の元々の持ち主に送った感謝のメールが帰ってこないまま数年、結局は自分も就職することにしてしまい、あの本たちはほとんど読まれずに本棚の中に眠っています。

ちなみにそういうことがあった後で、僕はこの教授が定年になったのだとばかり思っていたのですが、翌年の 5 月にその教授とばったり出くわしました。大学の前の交差点で、向こうから気づいて声をかけてきてくれたのを覚えています。

久しぶり、と彼は見慣れた笑いを浮かべながら言いました。今年のヘブライ語の授業だけど、言語学からの学生が急に何人にも増えた。何か宣伝してくれたの?と。

一切そういう宣伝はしていなかったのですが、ちゃんと言葉を返す前に信号が変わってしまい、教授は別の方向に歩いていってしまいました。結局期待されたのとは全く違う道を進むことになってしまったのですが、あのときの感謝をしなきゃな、とずっと思っています。