朝の6時まで友達と通話していた。自分はもともと大学のコンピューター系サークルの出身で、ゲームもいつもその同期としている。途中から、現役の学生が入ってきてくれて、8つ歳の違う我々と話をした。とても良かった。まるでローグライク生成しているかのように、大学のサークルというのは同じ種類の人間を引き寄せる力があるみたいだ。過去の友人と話しているような気がした。
陰キャラブコメのだいだい君を見たときにも、とても他人とは思えなかったのを覚えている。頭の回転が早く、それがそのまま言葉になるために、自分で自分にツッコミを入れながら高速で話す。理数系サークルで違うのは、事実の正しさに対する厳格な評価があるところと(特に数字が間違っていた場合はすぐに自己訂正が入る。「3年前じゃなくて2年11ヶ月前」とか)、言葉のテンプレートがネットミームではなく数学の用語なところだ。非自明とか明示的とか同一性とか嘘とかの言葉が日常会話にそのまま出てくる。一人称が私で、文法的に正確な日本語を話すので、一般的な口語からはズレているような感じがする。
自分は社会に出て6年が経った。いま思うのは、大学時代の自分や友人たちはコミュニケーション能力が低かったのではなく、そもそも外の世界とは違うコミュニケーションのやり方が存在していたのだということだ。外の世界では、多くの人と会ってすぐ別れ、議論よりも共同作業が多く、正しさよりも共感が優先される。学問の世界では、会う人の数はごく限られていて、議論すべき内容には正誤があり、共感は不要だった。いわゆる第一印象は意味が無いどころかノイズになるし、正しさを判定する手順が存在するから、思考の方法は共通していなくてよかった。外の世界のコミュニケーションよりも、許容される「幅」みたいなのが広かった気がする。
自分の場合、もともと数学は苦手だったし、言葉について考えるのが好きだったから、外の世界のコミュニケーションみたいなのも速やかに学べた。仕事仲間からは褒められることが多いけど、実態としてはルールに基づいて最適な言動をエミュレートしているだけである。マッチングアプリに挑戦したら塵となって散っていった。やはりエミュレーションだけでは限界があるらしい。
オチを考えないまま文章を書き始めてしまった。なんだろう……。特に最近の現実世界の評価軸は、第一印象や人当たりの良さに偏っている気がする。外見とか話し方とか、共感する能力とか。「内面を見る」という場面が増えたけど、それは何か特定の望ましい性格を設定して、それに近づけば近づくほど良いという評価をしているだけな気がする。本当は、人間の内面にはいろんなパターンがあって、思考の枠組みが違う人間は一定数いる。そういう人たちの居場所を作るにはどうしたらいいだろう?